5.認知症という病気について

認知症状を目の当たりにする家族は、なかなか心がついていけません。
《認知症》を理解しているつもりでも、やはりわからないことが多くあります。
専門家のように深く理解することは難しいですが、症状や進行状態、認知症の本質を知っておくことで少し楽になることもあるのだと思います。

まず、知っておくべきと思うこと。
《認知症は病気》だということです。

かつて認知症という概念がなかった時、それは老化現象のひとつのような認識であったのだと思います。私が子供の頃に体験した祖母のケースのように、身体が老いていくのと同じように、思考が老いてしまう、そんなものだと受け止めていました。
手にしわが増えたり、顔にハリがなくなったり、髪が薄くなったり、若くしてそれらの症状が見えたら慌ててしまいますが、高齢になれば不思議なことではありません。痛みを伴わないそれらの症状で、慌てて病院に駆け込んだりしません。

けれど、現在は《認知症》は脳が引き起こしている病気だとわかっています。
ですので、認知症が疑わしければ、答えは一つ。
病院を受診することだと思います。

何科に連れていけばいいのか、悩みます。
私の父は《精神科》を受診しました。
その他、神経内科、心療内科、最近は「ものわすれ外来」などの専門の窓口もあります。
近くの病院を探して受診してほしいと思います。

次に知っておくべきだと思うこと。
この病気は《治る病気ではない》ということです。

病気の治療はその病気を克服し元気になるためのもの。
けれども、《認知症》は治るものではないと言われます。
病院で認知症と診断され、治るものではないと言われたら、重い荷物が一気に肩にのしかかったような気持ちになります。

けれど、薬をもって、進行を遅らせることは可能な場合もあります。また、様々な不可思議な症状に対して、安定剤などで症状を抑えることも。
幻聴や幻覚など、そばにいると怖く感じる症状もあります。暴れたり、夜中も落ち着かず行動するという症状もあります。
それらを抑えることのできる薬があることを知ってください。

私の父は初期の認知症状で処方された薬によって、状態が安定し、まるで何もなかったかのように、落ち着いて日常を送ることができています。
これだけで、家族の負担は天と地の差です。
必ずしも、すべてがうまく行くとは限りませんが、医師と相談しながら状況を受け止め、少しでも改善が見られ、進行を遅らせる治療ができるように進めることが大切だと思います。
それは単に時間稼ぎに過ぎないかもしれませんが、時間があるということは、考え、動くことのできる準備期間があるということです。
これは決してマイナスではありません。

これまで《認知症》とひとくくりに書いていますが、そのタイプもいろいろとあります。よく知られているのは《アルツハイマー型》というもの。
その他にも《 脳血管性》のものや《 レビー小体型 》と言われるもの。
また脳梗塞などが原因で認知症になる場合もあります。
こうしてタイプが分かれていますが、それがわかったところで、対応する心にはあまりピンとはきません。
なにかしら様子がおかしいと思う相手がそこにいるだけなのですから。
それぞれのタイプやその症状、状態などは医師に説明してもらえばいいと思います。そして理解しできる限りの治療に臨めばいいと思うのです。

認知症の症状は、正直、身近にいる人にしかわからないと思います。
その波も状態も、そばにいるから気づくもので、マニュアルがあるから対処できるというものばかりではありません。

私がそばで見た症状をいくつか挙げておきます。

・食べたことを忘れて、またすぐに食べ物を欲する。
・食事を待ちきれず手づかみで口に詰め込むように食べる。
・傍にいる人がだれかわからない。
・自分の歳を忘れ、少女(少年)のようにふるまう。
・現実の生活と過去の日常が混在する。
・とんでもない化粧をしだす。
・お金を取られたと周りの人を犯人扱いする。
・ゴミをばらまく。
・表に出て近所に嫌がらせ行為をする。
・物を盗む。
・物を隠す。
・周りが敵だと思い込み恐れる。
・突然泣く。
・突然怒り狂う。
・身内の死がわからない。
・とんでもない運動能力を発揮する
・隠れる。
・トイレを忘れる。
・時間を忘れる。
・日常生活の当たり前を忘れる
・夜中の徘徊
・奇声。
・幻覚、幻聴の世界で過ごす。
・自分の葬儀を始める。
・亡くなった人の名前をひたすら呼び続ける。

ほんの一部です。
症状というより、どれもおかしな様子のひとこま。
どれも大変な状態ではありますが、共通しているのは、元気な状態だということ。
これらがきっかけで怪我をすることはあるかもしれません。
ただ、これらは脳の異変によって、その人自身が変化しまうような状態で、身体的に何か大きな症状があるというわけではないのです。

普通の状態ではありませんが、食事をとります。
自ら動いたり、声を出したり、お漏らしをしたとしても、ちゃんと身体の機能は動いています。
本当に怖いのは、身体の機能を忘れてしまうこと。

例えば・・・

どんな状況下でも、人は空腹のとき、食べ物を求めます。
とにかく口に入れ空腹を満たそうと思います。

ところが、《口から食べる》ということ自体を忘れてしまうことがあります。
食べ物を口に入れて、噛んで飲み込む、という《食べる》行為を忘れてしまうと、命にかかわる状態となります。

ないとは言えないその状態に直面したとき、どうすればいいか。
家族は最期の時への覚悟と選択が必要となるのです。

これは私の知る限りのケースですが、薬での治療もなく、最期の時まで同じ家で過ごした祖母は発症から約10年ほど生きました。後半2年ほどは体力がなくなり、寝たきりのまま老衰で亡くなりました。
現代のように、病気の進行を抑える薬があれば、もっと長生きが出来たかというと、それは正直わかりません。
ただ、同じ老衰での死だとしても、最後の時にそばに居たのが家族だとわかってくれたかもしれないですね。確かめる術もありませんが。

《認知症》について、医学的に学ぶことも当然できるだろうし、わかろうと努力することもできます。
でも、家族が知ることができるのは、そばで過ごした相手そのもの。
仲の良かった家族の想像もできない姿でしかありません。

大切な家族に対して疑問を抱き、大切な家族に対して苛立ちや怒りを繰り返し、悲しみがこみ上げてきます。日々の面倒な介護に、あと何年続くのかと不安になりながら、長い年月を過ごすことになります。
最期のときは、やはり悲しいものですが、同時に口には出せない安堵を感じるのだと思います。

そう思いながらも、私はそうならない方法を考えたいと思います。

遠くの町まで急いで品物を届けるとしたらどうしますか?
自分の車で運ぶ?
電車で運ぶ?
宅配で届ける?
誰かに頼んで手伝ってもらう?
選択肢はいろいろあります。
けれど、誰も 《重い荷物を抱えて、ひとりで歩いて運ぶ》なんて手段は選びません。それは、合理的ではないし、時間もかかる。《歩いて運んでこそ達成感が得られる》としたら、それは自己満足の領域ではないかと思うのです。


では、家族がすべきことは、と考えた時、やはり家族を思う気持ちに尽きます。
《認知症という病気》知り、客観的に判断できれば、家族だからこそできること、そしてできないことが見えてくるのではないかと思います。

私は、《認知症》の家族の介護はできません。
でも、いつも見守り、案じ、会いに行きます。そして手を握って大笑いすると、びっくりした顔をして笑い返してくれるのです。
心から嬉しい瞬間です。